倉田保雄先生インタヴュー

倉田保雄先生 略歴

東京都出身。慶応義塾大学経済学部卒業。第1回フルブライト留学生として渡米後、共同通信社に入社し、ロンドン特派員、パリ支局長など歴任。国際問題評論家として活躍し、NHK「視点・論点」のコメンテーターも務めた。1994年にフランス国家功労章(シュヴァリエ)を受章。著書に『夏目漱石とジャパノロジー伝説』(近代文芸社)、『エッフェル塔ミステリー』(近代文芸社)、『ヨーロッパ取材ノート―EUを知る・世界を知る』(三修社)ほか多数。

1、戦時下の慶應義塾

学生時代の思い出をお聞かせください。先生が入学された頃は、太平洋戦争直前でたいへんな時代だったと想像しますが。

 昭和15年(1940年)、17歳のとき、暁星中学を4年修了と同時に、飛び級で慶応の文科の予科(今でいう高校)に入りました。予科が終り、大学進学の際は転科試験を受けて、理財科(現在の経済学部)に進みました。当時は、A組からK組まであり、私はG組。それだけの組があったのですが、昭和18年9月の学徒出陣に際しては、当時、満20歳だった者が出征したためK組だけになってしまい、そのK組も勤労奉仕に駆りだされました。
 当時の理財科の教授陣には、のちに小泉信三先生の塾長代理を務めた「経済原論」の高橋誠一郎先生がいました。高橋先生は袴を履き、風呂敷きを持って教室に現われましてね。難しい言葉を使われ、「一般の例によれば」と言うところを「這般(しゃはん)の例によれば」とおっしゃる。この言い回しを試験に書けば最低Bは貰えるという話が、卒業生たちから伝説のように伝わっていました(笑)。ほかにも「金融原論」の三辺金蔵先生がいました。三辺先生は財政論の定義を説明するときに、「ハットフィールド氏の門をたたけば~」とか「ライル氏の教えを乞わば~」と言うので、試験ではその二人の学者の言葉を引用しておけばAが貰えると。そんなおおらかな時代でした。
 その反面、ドイツのゴットルの流れをくむ戦争経済を論じた武村忠雄教授は、予備役少尉の軍服を着用して教室に現われ、軍刀をドカンと教檀の机の横に立てかける、といった具合で私は不快感を禁じえませんでしたね。

学生のほうはどうだったのでしょうか?

 学生は二派に分かれていて、一方は、自棄で学校に出てこない者たち。もう一方は、私などもそうでしたが、これで最後だという思いから、なにかを残しておこうと、学校に出てくる者たち。それは、動物的本能とでも言うべきものでした。そんな者たちが集まって読書会などもしましたが、そうした場では、普段は口にできない、左がかった、反軍の書物を読んだりしていました。ちなみに当時は五人以上の集会を開くことは禁じられていました。
 大学のアフターファイヴのアクティヴィティはほとんどなかったです。ただ慶應の学生は三田から市バスで銀座まで五銭で行くことができたんです。あの頃は「銀座に行く」と言わずに「銀座に出る」と言っていました。ジャーマンベーカリー、チョコレートショップ(二階が玉突き屋)。俗にいう慶応ボーイなみにレジャーを楽しんだのは、昭和15、16年の予科の2年間で、戦争がはじまってから遊楽施設は、どんどんなくなっていきました。「ワシントン」という名の靴屋は昭和16年の12月8日(真珠湾攻撃がおこなわれ太平洋戦争がはじまった日)を境に「東條靴店」になりましてね、変わり身が早いと思ったら、後で分かったことでしたが、店主が東條英機と同姓だったんです。

映画などはご覧になられましたか?

 「ペペ・ル・モコ」(日本語の題名は「望郷」。ジャン・ギャバン主演、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1937年のフランス映画)とかね、観ましたよ。あのころ、最後に観たのは「舞踏会の手帳」(やはりデュヴィヴィエ監督作品)でした。私はこの映画を何度も観に行きましたが、すると特高(特別高等警察)に声をかけられ、「三日前にもおまえを見たが、その前にも見た顔だ」と言うので、「フランス語の勉強のために来ているのだ」と答えると、「フランス語? この戦争をしようとしている非常時に、なんの役にたつ!」と言ってきたものです。銀座八丁では、慶應ボーイは彼らに狙い撃ちされていましたから、ガールフレンドと歩くときには、絶対並んで歩いてはいけない、と言われていましたね。

その頃、三田キャンパスはどんな雰囲気でしたか?

 昭和18年ごろになると、塾の制服、制帽を着用した忍び憲兵や特高が三田の山にも出入りするようになり、非常に不愉快でした。手にしていた経済書を見咎められ、塾監局の隣の校舎の12番教室に連れ込まれて取り調べを受けた時の屈辱は忘れません。小泉先生もゲートルに国民服姿になり、私は、三田の山にもいよいよ暗雲が立ちこめはじめたと、いやな思いにとらわれました。
 また理財科の二年生の時、李君という同級生がおりましたが、彼が「倉田君、今日から僕は国本になった」と言ってきたことがありました。創氏改名です。その日のことを思い出すと、いまだにショックを受けます。もし自分がその立場だったら、と考えたものでしたが、もしそんなことを口にしようものなら憲兵隊に捕まる時代です。極論すれば、空気は非常に暗かったですね。
 予科の前半は、憧れの慶応ボーイになれた嬉しさのなかで過ぎていきましたが、突如、断髪令が下り、丸坊主にされたときはショックでした。その後は10か月に及ぶ軍隊生活を送りました。ちなみに当時、「幻の門」(三田キャンパスの東門)でわれわれ塾生は、軍隊式の兵営勤務につかされ、塾長や教授が通るたびに「気をつけ」で見送りする、といった「兵隊ごっこ」までやらされました。
 8月に戦争が終わって、9月になり、三田に卒業証書をとりに行く機会がありました。ただ、紙不足でまだ証書が作れないというので、藁半紙でできた卒業証書の引換券を受けとったのです。そもそも物資の不足していた頃で、仲間たちが、帽子を譲ってくれ、上着を譲ってくれとねだってくるので、ズボンだけは勘弁してくれと言い、結局、ワイシャツを譲り、アンダーシャツ姿で電車に乗って帰りました。後年、この引換券のことを『三田評論』に書いたところ、塾から「先生の卒業証書は、ちゃんと金庫の中に保管してあります」と言われましたが、私はそのとき「失礼ながら、私にとってはこの藁半紙の方が、価値がある」と答えましたよ。

2、フランス語、ジャーナリスト、海外勤務

先生は暁星学園で小学校からフランス語を学ばれていましたが、慶應でのフランス語の学習はいかがでしたか?

 フランス語では誰にも負けないと自負していましたから、当初、大学では仏文で学んでやろうと思っていました。ですから予科の試験では答案の一部をフランス語で書いて提出したほどでした。ちなみに、そのときの面接官の一人は佐藤朔先生(※)でした。

 ※佐藤朔 文学部仏文科の教授。のちの慶應義塾塾長。

 余談ですが、私の父は倉田庫太という名で、本人は「クラタコータ」と名のっておりましたが、実際には「クラタクラタ」なのです。その面接で三人の試験官のうちの一人が、この名前はどう読むのか、と問いましたので、「クラタクラタ」ですと答えましたところ、「君、ふざけちゃいけないよ」と言われてしまったのですが、「面白いやつだな」といった声も聞こえ、私は「これは受かったな」と思ったものです。当時は試験にも、そういうおおらかな感じがありました。
 予科では、夏目漱石の弟子でもあった後藤末雄先生(※)に一年間お世話になりました。私が暁星出身なので、フランス語がよくできるだろうというので、先生はよく私を当てて訳させました。アナトール・フランスの『我が友の書』の原典講読をしたとき、ある男性が貴婦人の体に触れる場面で、女性がその行為を押し返すときのセリフを「触らないでください」と私が訳すと、なんて訳だと言われ、こういうときは「あなた、およしあそばせよ」と訳すのだと言われました。翻訳とは、なるほどそういうものかと感心したものです。後年、翻訳の仕事をいろいろやりましたが、このとき受けた指摘は、つねに頭にありましたね。

 ※後藤末雄 フランス文学者。

先生がジャーナリストを志された理由をお聞かせください。

 フランス語に自信があった私は、さきほど申したとおり、最初は仏文志望で慶応の予科に入ったのですが、父は私が身上を潰すのではないかと心配し、経済に進むのであれば許す、ということになり、転科したのです。そんな父は、新聞記者のことを、当時の価値観に沿って、ゆすり、たかりをする輩と看做していて、人間のすることではないと言っていました。それでも私がジャーナリストを志したのは、反軍精神からで、絶対にペンで敵(かたき)をとる、という思いがあったのです。
 終戦で大学を繰りあげ卒業したあと、フランス語と同時に子供のときから習得した英語を「武器」に、夜はGHQで新聞、雑誌の翻訳をし、昼間は時事通信で働きました。さらにロイター、UPIを渡り歩いたあと、アメリカに留学しました。帰国後、共同通信で働くことになったのですが、私はそこではやや異端者的な存在で、役員になどなる気はなかったですが、英語を日本語にすることはできても、日本語を英語にすることができる人が少なかったこともあり、昇進して、パリ支局長、国際局次長、さらに編集委員になりました。パリ支局長になる前に、特派員として赴任したロンドンでは、ロイターの本社に出向する仕事を任されました。そこで日本人は私一人だけ。五年間にわたり英国や各国の記者たちと同じ釜の飯を食い、英国に関する知識を充電しました。英国王室に関する本も書きました。英国には宮内庁記者クラブのようなものはなく、王室のことに最も詳しいのは、王室御用達の植木屋だという話もそのときに聞きました。

倉田保雄先生。

倉田保雄先生。

開校(昭和9年)まもない日吉キャンパス。競技場と第1校舎(現在の塾高)、第2校舎が見えるのみ。

開校(昭和9年)まもない日吉キャンパス。競技場と第1校舎(現在の塾高)、第2校舎が見えるのみ。

出征する学生を送る壮行会。2列目左から4番目が倉田氏。

出征する学生を送る壮行会。2列目左から4番目が倉田氏。

昭和19年、経済学部の学生26人が、静岡県小笠郡桜木村での勤労奉仕にかり出された。中央に立っているのが小泉塾長、その隣りに学生時代の倉田氏。

昭和19年、経済学部の学生26人が、静岡県小笠郡桜木村での勤労奉仕にかり出された。中央に立っているのが小泉塾長、その隣りに学生時代の倉田氏。

わら半紙の成績証明書。

わら半紙の成績証明書。


パリ時代のお話をお聞かせください。

 1970年にパリに着任して約5年間滞在しましたが、着任直後にいきなりビッグニュースが飛びこんできました。ド・ゴール大統領の死去です。1968年の反体制運動の世代の人たちは、それまでド・ゴールを言いたい放題に罵ったりしていましたが、いったんド・ゴールが死んだとなると皆、シュンとなってしまいました。ド・ゴールが偉大なフランスの指導者であること、後任のポンピドゥーにはその力量はないことを知っていたのです。そして、このポンピドゥーのしたにシラクがいました。パリ市長時代のシラクにインタビューしましたが、マスコミの辛口の人物評とはうらはらに、なかなかの好人物でしたよ。

先生はフランスの社会をどのように捉えていますか?

 フランス共和国のスローガンは「自由(liberté リべルテ)、平等(égalité エガリテ)、友愛(fraternité フラテルニテ)」ですが、私がパリでお世話になった共同通信の記者で、フランス生活の長いベテランジャーナリストの松本和夫氏(日ソ交渉で活躍した松本俊一の子息)の観察は、なるほど、と思わせるものがありました。つまり自由は、生活をエンジョイする自由。フランス語でいうjoie de vivre (ジョワ・ド・ヴィーヴル)です。確かにフランスではこの「生きる喜び」を実感しました。平等とは、階級社会のフランスでは当り前になっている不平等の行き過ぎの防止のための平等です。そして友愛は、戦争の多い歴史に鑑みて、悪いことを考えたらきりがないから、という思いに基づく友愛、というものでした。
 また松本氏の話で印象深かったのは、フランスは巨大な生簀(いけす)だという話です。要するにその中にいるうちは、男女関係は本能の現われで、なにをしようがよいのですが、いったん生簀の外でことを起せば厳しい現実に直面する仕組みになっていると。また、フランスでは証人の言ったことは警察の判断に大きく影響するのでそれに気をつけるように、ということでした。
 私は、フランスの要諦は、デカルトのいう「我思う、故に我あり(je pense, donc je suis ジュ・パンス・ドンク・ジュ・スイ)」とモンテーニュの「我、何を知るや(Que sais-je? ク・セ・ジュ」の二つだと思うんです。フランスは人権発祥の地であると同時にエリート支配の階級社会ですから、その各層で「我、何を知るや」が発達するわけです。
 私はよく、英国とフランスとどちらが好きかと訊かれますが、英国に行くと、少々違和感を覚えます。フランスではそれがありません。私は小さい時から英語を使う環境に育ちましたが、同時に暁星で神父たちからフランス語を学んだことが大きかったのだと思います。

パリ市長時代のジャック・シラク氏へのテレビインタヴュー。

パリ市長時代のジャック・シラク氏へのテレビインタヴュー。


ほかにお会いになったことのあるフランスの著名人はいらっしゃいますか?

 シモーヌ・ヴェイユ(フランスの政治家)に料亭でインタビューしたほか、ミッシェル・フーコー(フランスの哲学者)が来日した際には一緒に鎌倉に行きました。フーコーはショーペンハウエルのことなどをしきりと話していましたが、彼はアメリカが好きなんですね。ウエスタンのカウボーイが好きで、ゲーリー・クーパーとかジョン・ウェインの名を挙げていましたが、ロナルド・レーガンは除く、と言っていましたよ(笑)。

映画監督ジャック・ドゥミ氏へのインタヴュー。

映画監督ジャック・ドゥミ氏へのインタヴュー。

哲学者ミシェル・フーコー氏と倉田氏。

哲学者ミシェル・フーコー氏と倉田氏。


3、フランス語のススメ、現役経済学部学生諸君に

フランス語は、現代の国際社会のなかで依然、重要であるとお考えですか?

 私はそう思いますよ。アリアンス・フランセーズ(フランス語の普及を目的とした民間の教育機関)などは、中国には十数箇所ほどもあるようです。オリンピックのアナウンスも、フランス語、英語の順で流されていますね。EUの本部はベルギーにありますが、たとえば「380号室はどこですか?」といった質問は英語で済ませられますが、部屋にたどり着いて中に入ったら、そこでの会話はフランス語だったりします。集まっている人の構成次第で、使われる言葉がフランス語だったり、英語だったり、ドイツ語だったりするのです。私がヨーロッパにいた当時などは、フランス語が話せなかったら取材自体ができませんでした。あの頃、フランスでは英語排斥の動きもあって、それに関連する法案は軒並み通っていました。とにかく学生のみなさんも、アメリカは理解しやすいが、ヨーロッパは理解しづらいで済ましていてはいけません。

経済学部の学生に向けてひと言、アドヴァイスをお願いいたします。

 やはりヨーロッパをよく知ることですね。アメリカの人口が約3億人、ロシアが約1億4千万人であるのに対して、EUの人口は約5億人ですから。それにアメリカのことは努力しないでも頭に入ってきますから、ロシアを研究しなければなりません。しかし一番頭に入りにくいのがヨーロッパで、それはロシア以上です。
 また「ゆとり教育」などというのは日本だけで通用する考えで、一般論として国際的には通用しません。中国でもそうでしょう。ENA(エナ、国立行政学院。政治家、官僚などを育てるグランドゼコールのひとつ)の校長にインタビューしたことがありますが、一握りのエリートがいないと、国は滅びると言っていました。このようなエリートにはならなかったとしても、常識的な教育の高さを維持する必要はあります。経済、政治のエリートは、勉強とか何とかという次元ではなく、質は様々だが、陶冶されていなくてはなりません。
 また、ひところ「国際人」という言葉が流行った時期があり、私は講演などをする際、よくこの言葉で紹介されましたが、その度に、私は日本人だ、と思っていました。外国にいて、私は自分を「国際人」だと思ったことはありません。むしろ絶えず、自分が日本人であるという存在感を内に秘めていました。皆さんも、日本人として、こういう道を進むのだ、という思いを持つことが大切だと思います。

(聞き手:新島進、山本武男)

倉田氏が手がけた新聞記事、フランスのエリート教育について。

倉田氏が手がけた新聞記事、フランスのエリート教育について。